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残された人びと/アレグザンダー・ケイ/岩崎書店
宮崎駿監督の初期テレビアニメ作品「未来少年コナン」の原作である。テレビアニメの方は、NHKから1978年、昭和で言うと53年の4月4日より、全26回で放映された。ちょうどその頃は、アニメブームが始まった頃であったが(それ以前はアニメという呼び方は一般的ではなく僕たちはテレビ漫画と総称していた)、放映当時、この番組自体はそれほど話題にはならなかった。僕自身はといえば、それこそ夢中になって、毎週心待ちにして見ていたことを憶えている。あれから既に20年以上の年月が過ぎた。時のたつのは早いものである。
それはさておき、「残された人びと」である。
アニメ版全編を貫く、躍動感、爽快感、明朗さを原作に求めるなら、大いに肩透かしをくらってしまう。
しかし、「残された人々」には、それ独特の魅力がある。むしろ、まったく別の作品として読むべであろう。
物語の舞台は、磁力兵器を使った大戦争の結果、地球の地軸が狂ってしまい、そのために巻き起こされた大地震や大津波や戦争自体によって、世界中のほとんどの人間が死に絶え、文明が滅び去った後の世界。
奇跡的に生き残った人々の中で、十二歳の少年コナンが、老科学者ブライアック・ローやその孫娘ラナたちとともに、化学都市インダストリアの廃墟から再び世界を支配しようと企てる「新社会」に立ち向かっていく姿が描かれている。
物語の中では、戦争を巻き起こした勢力は、「西方人」と「平和同盟」とされている。このうち「西方人」はそのまま西ヨーロッパ人と読み替えることができる。「平和同盟」の方は、その残存勢力である「新社会」の組織構造や、市民がお互いの名を呼び合うときに必ず「市民」という称号を名前の前に付ける(「市民ドクター・マンスキー」など)ことなどからして、旧東側国家をイメージしているのだろう。なるほど、「平和同盟」や「新社会」には、ジョージ・オーウェルの「1984」を彷彿させるものがある。
このことには、本作品が発表されたのが1970年であることを鑑みると、背景には当時の世界の「冷戦構造」が多大に影響しているものと思われる。そうした時代性を差し引いても、作品全体を貫いている、機械文明に対する疑問や、文明が持っている人間性の疎外に対する疑義は普遍的テーマとなりうるものだ。であればこそ、この作品自体の価値の一部分は、現在でもなお損なわれていない。
エンターティメントに流れがちで、時に演出過剰ともいえる昨今の、児童文学に飽食した今日では、一見突き放したようなエンディングを新鮮に感じる読者は、僕一人ではないだろう。
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